この本がきっかけでLinuxと出会った頃のことを思い出したので・・・・「Linuxと私」
「ニコニコ動画が未来をつくる ドワンゴ物語」を読んでいて、もちろんドワンゴの歴史も面白かったのだけれども
ゲームやPC、Linux、パソコン通信、インターネットについての歴史も言及されているところが歴史好きにはたまらない。
この本で90年代後半のLinuxブームに乗ってLinuxビジネスを展開している
「Laser5」という会社の話ががでてきた
なんか聞いたことがあるとおもったら、
自分も毎月購入していた「Linux JAPAN」を作っていた会社だった。
1999年頃であろうか、大学4年生になり計算化学の研究室で
UNIXをさわり初めてLinuxに傾倒していくころ。
「Linux JAPAN」とアスキーからでていた「Linux magazine」は毎月買っていた。
両誌とも最初は月刊化されていなかった。その頃から購読していたくらいだ。
「Linux JAPAN」は2002年7月号での休刊まで購読していた。
「Laser5 Linux」というディストリビューションを出したりしていたりと
積極的だったのは覚えている。
そのLaser5にいたのがLinux担当の柴田とゲーム担当の太田という二人。
太田はドワンゴの前身ドワンゴジャパンを川上と二人で立ち上げた創業者で
後のドワンゴ副社長
柴田もドワンゴが着メロビジネスのために立ち上げた会社コンポジットに
後から合流、コンポジットがドワンゴに合併してドワンゴの執行役員となる。
そんな訳で、なんだかLinuxとの関わりが懐かしかったのでちょっと
まとめてみようかと思い立った。
実はLinuxを初めた頃くらいのホームページというか日記というか
そんなものがジオシティーにほったらかしで残っているのです。
その当時の日記を引用してみる
※というかその当時の文章が残っているとは結構俺ってエライな(笑)
1999 4月
たまたま本屋で見つけた技術評論社「とことん使えるLinux」を購入し自分のマシンにSlackware3.5 +PJE-0.1.2cmを導入(Win98+Linuxの環境)
%kon と打つと画面が流れて何にも読めなくなるという事態が発生。しかし、本にはその対処法は書いていなかったのでかなりあせったが、その後、ネットの情報でやっと PJE-0.1.2cmをインストールし,日本語環境を手に入れる
にわか仕込みの Fortranで”Hello,World!”を作成してニンマリ
自分でインストールできたLinuxはSlackwareというディストリビューションに
PJEという日本語化パッケージを入れたものだった。
1999 5月
何を思ったかハードディスクをすべて抹殺し、Win98とPlamo Linux 1.4.2を導入
お勧めパッケージではnetscapeがついてこなかったのでインストールに挑戦
初めてモデムを用いたネット接続に成功(かなり感動)調子に乗って自作マシン第一号完成
このとき電圧、周波数のスイッチをまったく逆にして動かしたためAMD-k6-2 366MHzをおしゃかにしてしまう
しかし、前のマシンFMV-DESKPOWER CEからPentium 100MHzを取り出し第一号に取り付ける
パワーアップのつもりが実はパワーダウンであることに気がついた
第一号を大学の研究室に持ちこみインターネットつなぎたい放題の環境を手に入れる
第一号のホスト名”jin”に決定 少しは愛着が・・・
謝辞 第一号を研究室まで運んでくれた親友M69氏とtontei8458氏には厚く御礼を申し上げます
どうやらCPUを壊してしまったらしい・・・
1999 9月
自宅のマシンにVine Linux 1.1 を導入マシン名はjinyに決定1999 10月
研究室のマシンjinに IM+MEWの環境を構築!
これで、研究室でもLinuxをつかってメールの送受信ができるようになった
1 日のうちLinuxを立ち上げている時間がwindowsよりも多くなったような気がする
あとTeXが使えるようになればwindowsいらなくなるかも
自分のマシンにブラウザでアクセスしたところ、かってにWebサーバーが動いてることに気づく
そこで、/home/httpd/html/index.htmlを書きかえてみるとみごとに自分のマシンでHPが表示された
(略)
Webサーバーも勉強せんなんな〜
MEWはテキストエディタemacs上で動くテキストメーラだ。
一時期はメールもすべてLinux上で書いていた。
当時はWebサーバのことは全く知らない。
こののち、バリバリサーバ系になるとは思いもしないのであった。
2000 2月
今まで使用していたディストリビューション Vine Linux1.0 を研究室の人と共同で買った”Vine Linux1.1CRW”にバージョンアップしてみた。はじめは、新しいハードディスクにインストールしようかと思ったが、インストールの時にアップグレードの選択ができたのでそれにした。前の1.1と競合するかなーとの予想とは違い、今のところ何ともないので、まーいーかって感じだ。何しろ、CRWは限定版で商用日本語入力ソフト “Wnn6″(うんぬ) がはいっているのだ。
(略)
ようやくWnnが使えるようになったのです。そう、今、私は Wnnを使ってこの文章を書いてるが、なかなか使い勝手が良い、思いきってアップグレードして良かったと思う今日一日であった。
久しぶりの冒険で楽しかった。
ちゃんとパッケージを買った初めてのLinux OS(といっても共同購入)
当時、Linuxに入っていたCanna「かんな」は無償ではあるけれどもマイクロソフトも驚くほど
変換効率の悪い入力ソフトだった。
ちなみに、Wnnはオムロン製なのだ。まだ、ATOKはなかったと思う。
2000 12月6日
祝!!はじめてVMware2.0にWindows98をインストールすることができた。2001 6月2日
めちゃくちゃ久しぶりの更新だ。この頃は、よくWindowsでOfficeを使うので再起動してOSを切り替えるのが面倒くさくてしょうがない。そこで、Windows でOfficeを使いつつ別のLinuxマシンにTeraTerm Proでtelnetし、ASTEC-X というWindows用のXサーバーを使って作業しようと考えた。別のLinuxマシンというのは科学計算専用のマシンで最小限のソフトしかインストールされておらず、日本語の環境が整っていなかった。幸いにも、ディストリビューションが Vineだったのでrpmで必要な物をごりごりインストールするだけで日本語が使えるようになった。というわけで、ホームページのファイルもそっくりそのマシンに引っ越して、現在、WindowsマシンからLinuxマシンにログインして emacsを立ち上げてこの文章を書いておるしだいであります。
LinuxメインでWindowsはVMware上でという環境だったのを思い出した。
X windowのアプリケーションを研究室では多用していたのでASTEC-X という
Windows用のXサーバが必要だった。
このころにMac OS XがあればASTEC-X は必要なかったかも
【あとがき】
なんだか、1999年というともう10年前のことじゃないか。
研究室に配属された当初は計算機としてはDEC、SGI、Sun、などのメーカーの
雑多なワークステーションがあり、メインはSGIのOriginだった。
つまりちゃんとしたUNIXが入っていたということだ。
その後、研究室ではLinuxマシンが計算機の中心となって、NIS+NFTで
共有環境をつくったり、sambaでファイルサーバをつくったりしていた。
社会人になってからはFreeBSDも1年間触ったけど、すぐにCentOSに
移行していった。
Linuxは誰でも気軽に試せるOSで、本当にありがたい。
それは学生のころでも社会人になってからも同じだ。
インストールすれば誰にでも
最強のテキストエディタにコンパイル環境、UNIX環境が手に入るのだ。
学生時代の研究もほぼ、Linxu上でプログラムの開発からシミュレーションと
そして解析、学士論文、修士論文の執筆も行った。
こういった環境をつくることに関わってくれた方々に
本当に感謝している。
自分はいまそのおかげで生きているようなものだ。
今度は自分がコントリビュートする時期だろう。
まだまだ、お供することになりそうな予感だ。