博士の異常な鼎談 ひろゆき×水道橋博士×宮崎哲弥

2ちゃんねるの管理人ということで、ひろゆき(西村 博之)という人の存在は知っていた。

2チャンネル自体、自分は利用しないし面白いとは思っていなかったので
ひろゆきという管理人にもとくに思うところはなかった。

ところが最近、ニコニコ生放送へよく露出している。
見るきっかけになったのは、ホリエモンとの対談生放送だった。

TVではできないような、だらだら感と普通の人とは違う感性
その生放送をみて頭の中がグルグルと回った。

この人面白い!

もちろん「ホリエモン」も面白いけれども、ぶっ飛び過ぎていて
共感しにくいところもあるけど、「ひろゆき」の発言については
なんだかよくわかる。

なんだか、私自身がやりたいと思っていることをやっている
人なんじゃないかと思った。

とりあえず、本屋に行って関連書籍をかって、読んだ。
やっぱり、面白い。

日本の人口くらいの収入がありながら、ニートにしか思えないのはなぜだろう。

そうしているうちに、水道橋博士と宮崎哲弥が司会をしている
TOKYO MXの「博士の異常な鼎談」にひろゆきが出演するという。

博士の異常な鼎談 ひろゆき×水道橋博士×宮崎哲弥 後編2/3

Yahoo!オークションで「mF247」という音楽配信サイトを落札した話。

「低空飛行」という言葉が自分の心にささった。

もともと、mF247がうまくいかなかったのもサーバ代が月1000万円と
莫大なコストがかかったから。

それを、500分の1の2万円に抑えたという。

まさに、価格での低空飛行。

自分もレンタルサーバ関連のしてるのでよくわかるのだけど
新しいサービスを立ち上げようとする会社さんは
サービスを始めればお客さんがつくと見込んで、
利用者数を何万人、何百万人と多く見積もって相談してくることが多い。

そして、収入よりもコストが多すぎて失敗する。
なるべくそういうときはスモールスタートでどうですかと提案するようにしている。
アクセスが増えてきたら、また考えましょうと。

サーバ代はピンキリだから、数千円から何百万円にも見積できるのだ。
現状にあったスペック、構成を提案する必要がある。

会員の中から何かが生まれるのには、母集団が必要だし、
母集団の中でのコミュニケーションが必要だ

何かが生まれるのはいつかはわからない。

会員数は積み上がりだから、何かが生まれる可能性が高まる。

低空飛行であれば長くつづけられるから、何かが生まれる可能性が高くなる。

そういうことだ。

低空飛行でいこう。

低空飛行から大気圏離脱ほどの大爆発が起こる可能性もあるのだ。

低空飛行が何本かあればさらに可能性は高くなるよね。

博士の異常な鼎談 ひろゆき×水道橋博士×宮崎哲弥 後編3/3

ひろゆきの判断基準は「面白いか、面白くないか」なんだな。
そのあたりが本質なんだろう。

ひろゆき関連の記事は「ひろゆき部屋」へどうぞ
残りの動画なども貼り付けてる。

mF247 Episode2 特別メッセージ 丸山茂雄×西村博之(ひろゆき)


僕が2ちゃんねるを捨てた理由 (扶桑社新書 54)
ひろゆき
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[博士の異常な鼎談] 福岡伸一 前編 生命とは何か

これは、驚くべきパラダイムシフトだ。

つまり「人間は情報である」と言う事じゃないのか?

「食べ物は血となり肉となり」
「食べ物はエネルギー源で燃料である」

ということではなく

「食べ物を取り入れるのは体と世界とで平衡状態を保つため」

ということか

これはまた言い換えると物理空間内においての縁起に相当するのではないか

そうなると、物理的な体にアイデンティティはない
そして思考が乗っかっている物理的な脳にもアイデンティティはない

自分たらしめているのは思考そのもの、つまり情報だけ

「人間は情報である」

後半は情報空間の話のようだ


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生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)
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仏教やろう!

宗教の話ではありませんよ。

最近は仏教は本来宗教ではないのではないかと思っている。

実家の浄土真宗は多分に宗教っぽいけど。

こういう話はスゴク面白いとおもうけど
TVでやっても視聴率でないんだろうな。

仏教哲学に詳しい宮崎哲弥が「仏教やろう!」といっている(笑)
その後の水道橋博士のコメントも面白い。

[博士の異常な鼎談] 水道橋博士×宮崎哲弥×西寺郷太×中野裕太 後編

TVであまり説明しすぎるというのは、あまり良くないんじゃないかと。

説明しない、分からないからこそ、見ている人、教えてもらっている人が
興味がわくということは大いにある。

昨日読み始めた「思考の整理学 」では、素読について語っている。
素読も漢文の読み方は教えるけど意味は教えない。


思考の整理学 (ちくま文庫)
外山 滋比古
¥546
(1986/04/24発売)

湯川秀樹は実は文学学者家系で、小さい頃に
儒学者だった祖父に素読をならっていたときいている。

実家に帰ったときに、酔っぱらいながら兄貴にくってかかった
何故お経は意味が分からん言葉でかいてあるんだと。

聖書は翻訳もされて、わかりやすい言葉でかいてあるじゃないかと。

その返答はよっぱらっていたので覚えていないのは黒川家のお約束だ。

お盆の時のバイトで小学生のころから、私がよむことができる「讃仏偈」も
まったく意味が分からない。

でも、今は分からない言葉で書いてある方がよいと思えるようになった。

TVにしても本にしても、分かるところもあれば分からないところもあると
いうのがちょうど良いのだ。